”われわれ”という思考

岩崎 稔

 哲学者ヘーゲルの大著『精神現象学』(1807年)は箴言の宝庫と言われる。そのなかによく「われわれなるわれ、われなるわれわれ」と訳される一節がある。ドイツ語のまま示しておくならIch, das Wir, und Wir, das Ich である。ドイツ語を知らなくても英語から類推できるだろう。wir はweだし、das は定冠詞のthe、und はand。そしてIch は「わたし」ということだから、要するにI as we and we as Iということだ。
_乱暴を承知で言うと、この本は、「わたし」とはいったい誰であるのかということの執拗な探求の軌跡である。「わたし」はある信念を抱いて自分が何であるのか分かった気になっているのに、いざそれを確かめようとすると、とたんにその確信は内側から破綻してしまう。しかし、その否定の経験と同時に、「わたし」はきまってある新しい状況のなかに投げ込まれていて、そこでさらにその問いを繰り返す。そのときヘーゲルの「わたし」は、何か原理や理念を外から持ち込まないで、ひたすらそのつどの経験のなかにとどまり、自分に起こることを徹底して内在的に綴っている。その果てに、挙げた言葉どおりに、「わたし」は、つまるところ「われわれなるわれ」としての在り方以外にはありえないのだということを具体的に思い知らされる。この短いフレーズは、ヘーゲル弁証法のいわば「奥義」のようなものを表わしている。そして、この二重性はまた、本来の意味での「教養」Ausbildung という自己形成をめぐるドラマの、ダイナミックな特性も表している。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』は文学史のなかで教養小説の典型と呼ばれているが、同時代の『精神現象学』にも同じ性質がある。
_転じて、わたしたちの時代において、こうした「われわれ」という思考にどれだけ場所はあるのだろうか。ざっと見渡してみれば、なんだかそうしたものに事欠かないようには見える。さしあたって自分たちの「帰属」している一体性を強く押しだす振る舞いは、ネット空間を代表とする世界には溢れかえっている。「われわれ」を脅かす移民たちを堰き止めるために壁を作れ!「われわれ」が持っているものが奪われたからわれわれは貧しいのだ! 「われわれ」とは違うやつらを「われわれ」の世界に入れるな!──あたかも新しい野蛮の時代が来ているようだ。この野蛮な怒声は、自分たちの他者を恐れ、拒絶し、ひたすら攻撃的な言辞で虚勢を張っている。
_しかし、こうした「わたし」の帰属性をめぐる不安と虚勢のなかからは、実は「われわれ」に通じる回路は開けてこない。むしろ大事なことは、「われわれ」についての認識を見出すためには、ある種の「空間識の失調」のようなものがなくてはならないということだ。自分にとって見知らぬ、ずっとかなたの誰かに向かって「友よ」と言えること、近いものだけが自分であるのではなく、遠いものが近いものであり、近いものが遠いものでもあるということ──手近なアイデンティティを疑い、遠いひとびとへの共感と連帯を発見するドラマがなくては、わたしたちは「われわれなるわれ、われなるわれわれ」に至りつかない。ヘーゲルの哲学的内省のなかでは、それは「絶望の道程」だとも言われている。そうした知性の用い方が必要である。
_知性の用い方ということは、もうひとりのビッグネームの哲学者であるカントにも聞こう。カントの『啓蒙とは何か』によれば、一個の市民に相応しい啓蒙された状態とは「成年性」、つまりちゃんと大人になるということである。そのために求められたこともただひとつ、自分の知性を自分で使用せよ、ということであった。自分の知性を使用して他者を迎え入れ、「わたし」がときに否定される経験を通じて、まだ見えない「われわれ」に手を伸べるのである。

いわさき・みのる 総合国際学研究院教授 哲学

文献案内

G・W・F・ヘーゲル『精神現象学』上・下巻、樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー、1997年(ほかに、長谷川宏訳で作品社から、金子武蔵訳で岩波書店から刊行)
ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』上・下巻、山崎章甫訳、岩波文庫、2000年
カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年(ほかに篠田英雄訳で『啓蒙とは何か 他四篇』が岩波文庫から刊行)

2017年春号掲載

Special Thanks to:Sara A. G.

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