星泉教授インタビュー: 訳書『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』出版記念

チベットの長編歴史小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ~チベットの愛と戦いの物語~』ツェワン・イシェ・ペンバ/星泉 翻訳(2020年10月、出版社:書肆侃侃房)が刊行されました。

今回のTUFS Todayでは同書の出版を記念して、訳者であるアジア・アフリカ言語文化研究所の星泉教授(以下「星」)にインタビューしました。インタビュアーは、TUFSオープンアカデミー・チベット語講座の浅井万友美講師(以下「浅井」)です。

訳書『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』について

星教授

浅井:『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』のご出版、誠におめでとうございます! さらに、初版刊行からわずか2ヶ月で重版となったとのこと、本当に嬉しく思います。
出版不況と言われ、特に外国文学の翻訳書はそれほど読者が多くないと聞きます。チベットにはあまり馴染みがない方も多いと思いますし、さらに、この本の厚さ…。先生ももしかしたらこの反響は期待以上だったのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

:この小説の原作を読んだ時に、ものすごく面白いと思い、私の中では大ヒットでした。なので、やっぱりわかってくれる人はいたな、と思いました。そうは言ってもそれほど売れるものではないと、元々出版部数を抑えていました。それさえ売り切るのに何年かかるだろう、と言われていました。この本の帯絵を書いてくださった蔵西さんの大ファンだというアナウンサーの宇垣美里さんが、本屋さんで平積みされていたこの本を手に取ってくださって、ラジオ番組『アフター6ジャンクション』で取り上げてくださいました。ラジオでチベット文学を取り上げていただいたのは、初めてだったのではないでしょうか。宇垣さんのプレゼンがとても上手で、私が聴いていてもグッとくるようなものでした。その番組を聴いて興味を持ってくださった方がとても多かったのでしょうね。

浅井:どのようなストーリーなのでしょうか。

:チベットの小説なのですが、1924年のサンフランシスコから始まります。主人公スティーブンスは、若いアメリカ人宣教師で、ハーバード大学で東アジアの言語と文化を学んだ人という設定です。キリスト教を宣教するために中国に夫婦で派遣されます。上海で、憧れの地であるチベットに派遣されることが決まりそれを喜んでいるのですが、派遣されるところは、荒くれ者が多いことで有名なニャロンという土地です。ニャロンに着いてまもなく、その土地のご大家の息子が、出産間近な母親が苦しんでいるといって、助けを求めてやってきます。二人は医療の訓練を受けていたので、親身になって出産の介助をし、ご大家の信頼を勝ち取ります。ご大家に認められたので、村でも受け入れられていきます。
ご大家の主人とのやりとりがおもしろいのですよ。「未開の地をキリスト教で染めてやろう」という意気込みでやってきたスティーブンスを、敬虔な仏教徒である主人が「がんばれ」と励ますんです。そしてご大家の主人に勧められて、村にある僧院に挨拶に行くんですが、意外なことにそこでも受け入れられ、布教も好きにやってくれと言われます。また、訪問したもう一つ別の僧院では、トップの高僧と哲学談義になります。学識のあるそのお坊さんに心惹かれ、初めて自分の信念が揺らぐ感覚を覚えます。そして、この人たちへの布教は簡単にはいきそうにないと感じて自分の教会へもどっていきます。
村の人たちはスティーブンス夫妻が自分たちの村にそう長くいるとは思っていないのですが、彼らはそこで生涯を送る覚悟であって、子供も生まれます。ご大家に生まれた男の子と同い年の息子が、その土地の子供として育っていきます。この物語はスティーブンス夫妻のものであり、また子供たちがチベットの谷で育っていく物語でもあります。スティーブンスは、アメリカに何の興味もなくチベット人として育っていく息子に対してなんとなく歯痒い感じもするのですが、チベット文化に身を浸しているうちに、当初は憧れと同時に宗教の面からは対決姿勢で見ていたチベットをますます好きになっていきます。
その地のチベット人たちは、自分たちが大切にしているものをそれぞれ大事にしていけばいいんだ、という主張を持っています。それを守るために他者を貶めるのはおかしい、他者が大切にしているものは尊重すべきだ、それはそれだけだ、とずっと言い続けます。スティーブンスは医学的貢献の方に身をおきながら、細々と布教をしているのですが、ほとんど失敗に終わります。谷の中では、異物が紛れ込んできたという受け取り方をする者も一方であって、キリスト教排斥運動は中国各地でもあったと思うんですけど、それはチベットでもありました。ニャロンの村でも教会が焼き討ちされてしまったり、教会関係者が殺されてしまったり。疫病の流行もキリスト教徒が来たせいだと谷の人たちが思い込んだりします。復讐が連鎖し続ける土地柄である、ということも小説の中で克明に描かれています。凄惨な虐殺事件も起きます。
スティーブンスたちがニャロンに来て二十数年たった頃に、中国共産党が成立して、そこから状況ががらりと変わっていきます。それまでの対立がとても小さなものだと思えるほどの大きなイデオロギーが持ち込まれて、チベット全部が共産主義の中に飲み込まれていきます。先ほど話したように、チベット人たちは、自分は自分、よそはよそ、でも自分の場所にだれかが入って来たら徹底抗戦する、そういう立場です。そして、徹底抗戦せざるをえない状況になったので、逃げるか戦うかどちらかなんですよね。そこからは読むのも苦しい場面がずっと続くのですが、その中でも自分の場所がどんなに狭くなっても自分の場所は守る、そこだけは犯されないと信じて行動する若者たちの戦い、僧院の戦いが描かれます。物語のキャラクターたちが、大事なものは何かと自分にも他人にも問いかけるのですが、物語を通じて私たちへのメッセージにもなって、グサグサと胸に刺さります。

浅井講師

浅井:何が大事か、それに対するはっきりした答えを持っている。そして、それに基づいて行動している人たちに、強さを感じますね。
この本の中で注目してほしいところや、おすすめの読み方はありますか。

:異文化とどう付き合うか。私たちにとってとても重要な問題ですよね。連日のニュースを見聞きしていても、そのことがよくわかります。この小説はずっと前に書かれたものですが、現在でも、こういった対立が常に起こり続けていて、全く変わっていないのではないでしょうか。異文化への敬意とそれを知ろうとすること、そして相手の立場を尊重すること。それらが欠けた時にすごく恐ろしいことが起こるよね、ということを教えてくれる気がします。今、目の前で起きていることと関連づけて読むことができる小説だと思っています。
中国共産党の思想に共鳴したチベット人もそれなりにいました。新しいものに触れて、今の自分たちの生活を省みて変えていきたいと思い、革命に賛同しようとしたチベット人の姿もこの本では描かれています。一方的に「中国共産党がチベットを侵略して悪い」というのではなく、もっと深いところで、当時生きていた人々の心の中で何が起きていたのかということがよく伝わってきます。描写がリアルなので、本当にそういうことがあったのだろうと思いながら読むことができます。チベットの現代史を知識としては知っていた人が読んでも、血肉のある、生きた人たちの話として再び胸に迫る感じがあると思います。物語の力かなと思います。

浅井:共産主義に共鳴したチベット人一人ひとりの人生に、深い思索、イデオロギーへの深い理解もあってそこに至っている、というのがこれまであまりピンと来ていなかったのですが、この本を読んで身に迫ってくる感じがしました。

:この本では「対話」がとてもたくさん描かれています。とても読み応えがあります。「対立」より「対話」が成立したら新しい局面に向かうことができるのだろう、という希望を著者が抱いていて、それが物語に表れているのだろうと思います。

本との出会い、翻訳

浅井:この本とはどのように出会ったのでしょうか。

左:原書 右:訳本

:物語がとても好きなので、翻訳を始めました。翻訳をしていたのは、自分が専門としているチベット語で書かれたチベット文学の翻訳でした。1980年代から2000年代くらいまでのチベット長編小説を取り上げたあるフランス人研究者の論文を読み、その研究に興味を持ち、自分でも調べていたところ、チベットには漢語で書かれた長編小説もたくさんあることがわかりました。そこで、チベット語と漢語それぞれ、どのような人がどちらの言語で小説を書いているかというようなデータを自分でも作り始め、学会で発表したりしていました。そのような時に、知り合いの台湾系アメリカ人研究者から、英語で書いている作家もいるのではないかと言われ調べたところ、この本の著者であるツェワン・イシェ・ペンバが英語で書いた小説と出会い、2017年に刊行されていることがわかりました。すぐに取り寄せ読んだら、それがとても面白くて。さらに興味をもってペンバの小説を調べ始めると、1966年に長編小説を出していることがわかり古本を取り寄せて読んだのですが、これもまた面白い。素晴らしいストーリーテラーだと思いましたね。

浅井:先生はこの数年、とてもお忙しい状況だったと思いますが、どのようにこのような長編を翻訳し、また、モチベーションを維持したのでしょうか。

翻訳はスマホ(入力)とKindle(原書)を二台持ちながら

:エージェントを通して出版までの契約期間について聞いたところ、最長で2年でした。本当にその期間にこんな分厚い本が翻訳できるかと不安がありましたが、面白い小説なのでみんなに紹介したい。他の人が訳してくれるとも思えなかったので、やることにしました。2018年10月に契約をしたのですが、その頃いろんな事務仕事があってなかなか手がつけられず、実際に翻訳を始めたのは11月半ば過ぎでした。どうやったら期間内に完了できるか考え、少しずつでもいいからとにかく毎日進めることにしました。日々の作業記録をExcelでつけ、全くできなかった日もきちんと「0」と書いて、明日の糧にしていました。作業は、だいたい通勤の電車の中で、原書の入ったKindleと翻訳用のスマホを片方の手で持ち、もう片方の手で訳文の入力をする、というやり方でした。それをひたすら積み重ね、翻訳自体はおよそ1年で終えました。やりたいと思っている時にやるのが一番ラクだし楽しいですね。

翻訳した字数を毎日記録

浅井:解説を拝見すると、終わってからもとてもたくさん本を読まれていますね。

:翻訳が終わってからが大変でしたね。解説を書かなければならなかったのですが、このあたりの時代の歴史はとても辛い出来事が多いので避けてきたところがあって、解説を書くほどの知識がありませんでした。この本を読んで、この人たちのことをちゃんと伝えるためにきちんと勉強しなければと思い、多くの文献を読みました。

浅井:星先生の本を読む時に、一番楽しみにしているのが「解説」です。すごく上等な羊羹を食べている感じがします。厳選された材料を確かな技術で、十分に練ってある。一行たりとも気を抜いたら大事なことを見落としてしまう気がします。貴重なことがすごく凝縮して書いてあるのに、とても口当たりが良くわかりやすいのです。後味さっぱり、でもじわじわきて考えさせられる。今回は辛い時代のことが書かれている小説だけど、下を向いたまま読み終わるような解説ではないからだと思いました。読んで心動かされましたし、そこから自分でもまた考えていかなければならないと思わせてくれました。

チベット文化研究

浅井:最後に、先生が進めているチベット文化研究についてお伺いできればと思います。翻訳の傍ら、最近では牧畜文化研究の大プロジェクトをされていました。プロジェクトの成果もすでに出されています。その紹介とこれからの展望をお伺いできたらと思います。

『チベット牧畜文化辞典』

:辞書の仕事、翻訳の仕事、そして専門が言語学なので文法書を書いたりもしているのですが、一見、それらがバラバラに見えると思います。しかし、これらは私の中では全てつながっています。翻訳をしていると、いつもわからないことだらけです。チベットの田舎の普通の人たちが暮らしているディテールが全然翻訳できないのです。特に分からなかったのがチベットの牧畜文化でした。2015年に東京外国語大学出版会から出版した『ハバ犬を育てる話』という本の原作の著者・タクブンジャが牧畜地域の出身で、やはり牧畜の話がよく出てきました。それを訳していて本当に困ったなという経験がたくさんあり、これを調査してまとめたら、いいものができるのではないかと考えました。ちょうど同じような時期に、牧畜文化に興味を抱いていた研究仲間の海老原志穂さんと別所裕介さんと3人で、2013年に牧畜語彙収集プロジェクトという共同研究プロジェクトを、本学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)を拠点に始めました。私はチベット語を教えたり、チベット文化について講演をしたりしてきたのに、都会のことしか知らなかったのだと、プロジェクトを通じて知れば知るほど感じ、ガツンと殴られたような思いでした。共同で辞書を作ることがプロジェクトの主な計画でした。6年くらいでしょうか、毎年現地に通って、チベットの牧畜民の人たちの協力を得ながら、記述を進めて辞書を作りました。辞書を作るといろんなことがわかります。本を翻訳するときにも、辞書がとても役に立ちました。チベットという特定の地域のことですが、他の地域にも応用が効くのではないかと思います。オンライン版も作りました。文学でわからないことに出会ったから辞書を作りましたが、自分でも役立ちましたし、他の人のためにも役立っていくだろうと思っています。相手のことをもっと知ろう、というきっかけを文芸翻訳が与えてくれて、知るためにいろいろと細かなことを辞典編纂で経験したことで、小さなレベルでもチベット文化の奥深さを知ることができました。もっともっと知るべきことが広がっているのだということも知った感じがします。

チベットでのフィールド調査の様子

浅井:日本でのチベット研究というと仏教が中心であったと思いますが、現代そして世俗の分野に研究対象が広がって、さらにアカデミックな世界だけではなく、もっと外の世界に向かって発信されていることはありがたいことだと思います。活動の拠点になっている東京外国語大学そしてAA研で、そのような活動がもっと広がり深まっていけばよいなと、チベットに関わる者として嬉しく思っており、また願っております。近いところでは、1月20日に刊行された『フィールドプラス』の最新号の巻頭特集で海老原先生の責任編集でチベットのことが書かれていますね。星先生、本日はお話をお聞かせくださり、どうもありがとうございました。

『フィールドプラス』最新号

星泉(ほしいずみ)
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授。
1967年千葉県生まれ。専門は、チベット語学、言語学。博士(文学)。1997年に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に赴任。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。編著書に『チベット牧畜文化辞典(チベット語―日本語)』、訳書にラシャムジャ『雪を待つ』、共訳書にトンドゥプジャ『ここにも躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『黒狐の谷』などがある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。

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