「原作が解き明かす映画の謎 ――「予告された殺人の記録」を読む
講師 野谷 文昭先生(東京大学人文社会系研究科・文学部教授) 略歴
1948 年神奈川県出身。東京外国語大学スペイン語学科卒業。同大学院修了。立教大学、早稲田大学等を経て、現在、東京大学教授。スペイン・ラテンアメリカ文学。
著書
『越境するラテンアメリカ』(PARCO出版、1989)
『ラテンにキスせよ』(自由国民社、1994)
『マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー』(五柳書院、2003)
翻訳書
マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』(集英社、1983)
セネル・パス『苺とチョコレート』(集英社、1994)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』(みすず書房、1997)
マリオ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』(国書刊行会、2004)
フリオ・コルタサル『愛しのグレンダ』(岩波書店、2008)
アデライダ・カルシア=モラレス『エル・スール』共訳(インスクリプト、2009)
など、多数。
『予告された殺人の記録』は原作小説の翻訳(新潮社、1983)のみならず映画字幕も担当。これ以外にも映画字幕翻訳者としての仕事が多数ある。
講演要旨「原作が解き明かす映画の謎 ――「予告された殺人の記録」を読む
※ 講演に先立ち、総合科目Ⅱ「表象文化とグローバリゼーション10a」(柳原孝敦准教授)特別授業として、映画『予告された殺人の記録』(フランチェスコ・ロージ監督 1987年 フランス=イタリア)が上映されました。
この映画は1987年の製作ですが、ガルシア=マルケスの原作小説は1981年に書かれ、日本語訳は1983年に出ています。原作は、1951年にコロンビアのカリブ海沿岸地方の内陸部、マグダレナ河の支流に近い小さな町スクレ(原作や映画では<町>と呼ばれる)で起きた事件を元に書かれています。
この映画の一つの特徴はオールロケということで、大部分がスクレに近いコロンビアのモンポスで撮影されています。ロケの際、撮影クルーはまず町中の消毒を行ったそうで、そのためか、映画は清潔かつ無機的になりすぎた感があります。また、主役級の俳優が外国人であり声が吹き替えなので、スペイン語に勢いがないのも気になります。全体がどこか夢のように感じられるのはそのせいかもしれません。
映画では謎を解き明かそうとする<わたし>はかつての医学生クリスト・べドヤですが、原作では二人は別人で、<わたし>が何者かは正確にはわかりません。原作の<わたし>はこの<町>の出身者として、この<町>に対し内からの目と外からの目を持っていて、事件を過去と現在を合わせながら解明しようとします。映画では<わたし>が異なっているので、<わたし>の重要な情報源である母親の影が薄くなり、また、<わたし>の母親と犯人たちの母親とが親戚同士である血の濃い世界がわかりにくくなっています。
原作では町の太母とも言える娼婦が仕切る娼家が、神殿のごとく重要な場所として描かれていますが、映画では全く出て来ません。そのため、新婚夫婦の初夜以外、性的なものがすっかり消えてしまっています。これも清潔感を強める要因になっているようです。
映画では音楽や踊りもカーニバルの圧倒的な存在感を持っていませんが、これは仕方のないところです。つまり、小説では人々の記憶の中で捏造され拡大された過去が語られる。ガルシア=マルケスは誇張法を使って披露宴を大きく見せているのですが、映画にはそれができません。ガルシア=マルケスは、映画の脚本と小説を書き分けます。したがって彼の小説を映画化するのはもともと無理なのです。それでも世界の監督たちが映画化したくなる魅力があるのです。
原作では肉体はきわめて有機的であり、とくに死が生を際立たせています。グロテスクな死体解剖の場面もそのための装置となっている。たとえば使用人がウサギの臓物を犬にやる場面は後の殺人の伏線になっていますが、もちろん映画はそこまで描きません。
他にも映画と原作には様々な違いがある(レジュメ参照)。死の予兆、夢の表現、スカトロジックなもの、アラブ人コミュニティーの存在、共同体の儀式の犠牲としての死、キリストの磔刑の想起、事件の衝撃と<町>の共同体の変化、アンへラとバヤルドの象徴的母殺し・父殺しと成長物語等々が、映画ではわかりにくかったり失われたりしています。
原作のラストは殺人の場面で、アンへラとバヤルドの後日譚が先に語られています。短いテクストの中に近過去・大過去・過去が複雑に入り混じり、最初は読みにくいかもしれません。ただ、時間の構造が見えてくると実に面白い。ぜひ原作を味わってみてください。
当日の配布資料は、こちらからご覧いただくことができます。
ガルシア=マルケス著作図書 東京外国語大学附属図書館所蔵リスト(2010年8月現在)は、こちらです。